竜人の娘

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 空気が刺々しい。世界中がみんな自分の敵に回ったような感覚、とでも表現すれば良いのだろうか。いいや、自分の、だけではない。世界が自分とお腹の子どもの敵に回ってしまった。悲劇的。いや、そうではない。元々この世界はラベンナにとって味方の多いものではなかったのだから。

 ラベンナは竜人と人間の間に生まれた子どもだ。竜人にとって人間は敵ではないけれど、人間にとって竜人は敵に等しいほど脅威な存在。竜人の役目は世界を調整すること。この世界が世界として成り立つように、過度な破壊と創造を抑制することだ。竜人にとって人間は敵ではない。それは人間がこの世界を過度に破壊することがなければ、という条件付だ。この世界を守るために存在する竜人は、もちろんこの世界に住む人間も守護する。けれど、人が世界を傷つけるのならば、竜人は世界の意思で人を狩るだろう。そして人間は竜人の力に対抗する術を持たない。竜人は自らの意思で人を害するような行いはしない。けれど人は竜人が持つ力を恐れ、彼らを敵対視する。

 それは半ば無意識の自衛的意思だ。力関係で成立している世界では、その意識を持たぬ方がおかしい。

ひっそりと人を避けて暮らす養父は、ラベンナにそう言って聞かせた。人は竜人の敵ではない。それは、力の差があまりに大きいためとも言える。

 でも、竜人はどうして嫌われている相手を守ろうと思えるの? それが役目だから?

竜人は人間が竜人を害しても、世界を害さない限りは人間を害することはない。人は守るべき世界の一部であるからだ。

「ラベンナ」

 それはとてもとても高貴な考えだわ、とラベンナは心の中で悪態をつき、そして部屋の扉の向こう側からかけられた夫の声に対しては声に出して悪態をついた。

「入って来ないでって何度言ったら分かるの? ラーロウ! 部屋の扉より中に入ったら引き裂いてやるから!」

 育て親の教えなんのその、でラベンナは扉の向こう側に向かって怒鳴った。ラーロウはラベンナの夫であり、そして竜人の守るべき人間であった。すると向こう側も負けじと叫び返す。

「ラベンナ! 何度も言うようにお腹の子どもの父親は俺だぞ?」

 勇ましく言い返してきたのもの、一度ラベンナの意思を無視して部屋に押し入って、怒ったラベンナに部屋の物を手当たり次第に投げられて酷い目にあったせいか、ラーロウは中に入ってこようとはしなかった。

「それがどうしたのよ! この子を産むのは私よ! この子の命は私にかかっているの! 役立たずの貴方は引っ込んでいなさい!」

「や、役立たずって、確かに俺は男だから子どもを生んでやれないがな!」
「ラベンナ様、殿下はラベンナ様とお腹のお子を心配しておられるのですよ」

 ラーロウの声に続いて聞こえたのは、この屋敷にはいるはずのない少年の声だった。彼はかつてラベンナのお目付け役であり、友人であり、そしてラベンナが彼よりも大きくなってしまってからは弟のような存在。養父の使い魔である彼は見た目ずっと少年のままでいられるのだ。

「ジャミ! 卑怯な人ね、ラーロウ! ジャミを連れてきたって部屋には入れないわよ!」
「そんなつもりじゃあ……」

 ラーロウの声が弱々しく尻すぼみになる。それを聞いて、まるで咎めるようにお腹の子どもがラベンナの腹を蹴り上げた。

 あぁ……分かっている。分かっているのよ。

ラーロウはラベンナの身を案じているだけだ。ラベンナと二人の子どものことを。けれど大切な二人の子どもだと思うと余計に、周りのすべてが敵に思えてしまうのだ。だからせめて誰も傷つけないように、部屋の中へは入ってこないで欲しい、と思うラベンナの気も知らないで、命知らずの誰かが扉を開けて中へ入ってきた。

「入ってこないでって言っているでしょう? 本当に引き裂かれたいの!」

 自分でも情けないほどヒステリックに叫ぶと、ラベンナは人間の女には到底出せないスピードで侵入者に手を挙げていた。爪を使わないだけまだ理性が残っている、ということもできたけれど入ってきた相手の気配も察せられないくらいではやはり理性など役に立たない状況まで追い込まれていたのだろう。

「育て親に随分な言葉だな、ラベンナ」

 ラベンナは自分の手を事も無げに受け止められて、そこでようやくなけなしの理性を呼び戻した。

「カリス!」

 目の前に立って、ラーロウでさえふらつくほどの力の込められたラベンナの手を取っているのは、ラベンナの育て親だった。いつものように青白い顔をしていて、ラベンナの手を受け止めてもそれは変わらない。人間とは違う、そういう匂いをさせている男は、ラベンナの兄と言っても通用するくらいに若い。実際は、ラベンナの五倍は長く生きているらしいのだけれど。

「そう苛々するものではない。竜人は自ら人を害するような行いはしない、そう教えていたはずだが?」

 育て親はラベンナの手を捕まえたまま、静かにそう言って首を傾げた。端正な顔は仮面のように整って見えたが、実際には少し苦笑している様子なのがラベンナには見て取れた。

「……まだ害していないわ。脅してはいけないとは言わなかったじゃあない……」

 カリスに自分で制御できないくらいに取り乱れた姿を見せるのは、何も初めてのことではない。しかしラベンナはもう結婚して、こうして母親にもなったのだ。手のつけられない駄々っ子のような様子を咎められて、当然酷く気まずい思いに駆られた。

「確かに。だが、婿殿がお前を心配しているのは本当のことだぞ? この私に助けを求めたのだからな」
「……分かっているのよ、ラーロウは悪くないわ。でも駄目なの、人が近づくと苛々してしまって……。抑えられないのよ、こんなに我慢がきかない女だとは思っていなかったわ。メイミィにまで怒鳴って……このままではいけないって分かっているんだけど」

 カリスが現れた驚きにしばし治まっていた苛々も、こうして現状を話している間にまたぶり返してくるのが分かる。カリスはラベンナに癇癪を起こされてもなんてことはないだろうけれど、これ以上醜態をさらし続けることはラベンナのプライドが許さない。竜人は誇り高く、そして寛容であるべきだというのがカリスの教えだ。もっとも、彼自身は誇り高いことは間違いなくとも、寛容であるのかそれとも周囲に無関心なのかというところは紙一重なのだが。

「竜人の女も妊娠期には異常など神経が昂ぶる。お前にその症状が出るかどうか分からなかったから何も言わずにいたが……」

 カリスはラベンナが再び怒り出す前に、懐から綺麗に蝶々が彫刻された木箱を取り出した。ラベンナの人間よりも敏感な鼻は、その木箱の中に納められているものの匂いを嗅ぎ取ってひくひくと獣のように動いた。

「それは? ……いい匂い。不思議ね、胸がすっとして……落ち着くわ」

 ラベンナは気づかなかったが、彼女がそう言った瞬間に、微だがカリスの顔が強張った。だが本当に微かな変化に、誰が気づくだろうか。本人でさえ意識していないことなのかもしれないというのに。

「妊娠期の竜人の女を静めるための香だ。竜人はもともと出産がとても困難な種族で、子どもが無事に生まれてくる確立が低い。そのため女は妊娠期に神経を昂らせて、外敵からお腹の子どもを守るのだが、神経が昂ぶりすぎて母体が先に参ってしまうことが多い。この香は母体の緊張を和らげるために調合されたものだ」

 カリスは淡々と説明し、美しい木箱ごとその香をラベンナに押し付けるようにして渡した。

「お前の竜人の血は薄いから、香りを薄くしてある。中毒の心配もないから、部屋で焚いておくといいだろう」
「ありがとう、カリス」

 ラベンナの怒鳴り声が聞こえなくなったせいか、ラーロウがこっそり部屋の扉を開けて隙間から中を覗いた。ラベンナは敏感に空気の流れを察して、扉の方を向く。ラーロウと目が合った。瞬間、少し警戒したようにラーロウの目が泳いだけれど、ラベンナはそれを軽く見逃して微笑んだ。

「ラーロウ、ごめんなさい。私……」

 最近は見ることのできなかったラベンナの笑顔に、ラーロウは心から安堵したような表情をして、カリスの顔を伺いつつも部屋に入ってきた。

「いいさ。君一人の体ではないのだから、神経質になって当然だ」

 広げられたラーロウの腕の中に、ラベンナは大人しく納まってあげた。思えば、苛々が始まってから彼の腕に抱きしめられることがなくなっていた。また、これから生まれる子どもが今度は嬉しそうにラベンナの腹を内側から蹴った。

「ジャミ! ごめんなさいね、私、分かっているのに苛々してしまって」
「いいえ! お腹、だいぶ大きくなられましたね、ラベンナ様」

 ラーロウに続いて部屋に入ってきた少年の頬に、ラベンナは謝罪のキスをした。ジャミはラベンナからのキスをいつもくすぐったそうに笑って受け止める。そしてジャミは、あのおちびさんが本当に母親になって今度は新しいおちびさんを産むのだと改めて実感した、というようにラベンナの膨らんだお腹を見て言った。

「えぇ、私の苛々が響いてないといいのだけれど……」

 久しぶりに穏やかな空気がラベンナの部屋に流れた。これから屋敷の人達に謝らなくてはいけない。そして今日はなるべく多くの人と食事をともにしようとラベンナが考えたところで、その夕食を共にする頭数にラベンナが当然入れていたカリスが、平坦な声で言った。

「私は帰る。ジャミ、お前は好きにしろ」

 そうジャミに言うと、カリスはさっさと身を翻して部屋を出て行こうとする。ラベンナはそんな養父を慌てて引き止めた。

「待ってよ、カリス! せっかく来たのに……」
「そうです。お礼も兼ねて夕食をご一緒にいかがですか、舅殿」

 ラベンナの機嫌が落ち着いて、ラーロウはよほど安心したに違いない。相性の良くない――と本人が漏らしていた――カリスを夕食に誘うなんて、普段ならばありえないことだ。

「申し出はありがたいが……その香、嗅いで落ち着くのは妊娠期の竜人だけでな。私にはとてもではないがよい匂いとは思えない」

 だから先ほどからどこか苦々しげな顔をしていたのか。ラベンナにとっては本当に気持ちの落ち着く良い匂いとしか感じられないのだけれど。

「俺は何も匂わないが……」

 ラーロウが木箱に鼻を寄せてそう言った。すかさずカリスに人の鼻では嗅ぎ取れなくて当然だ、と言われて、ラーロウはまるで叱られた子どものように首を竦めた。

「出産の手伝いにはならないだろうから、私は帰るぞ。無事に子どもが産まれたら見せに来てくれることを期待する。大事にしろ、ラベンナ」
「丈夫な子を産んで必ず行くわ、カリス」

 立ち去るその背に呼びかけても、カリスは立ち止まらず、手を振ってくれることもしなかった。ただラベンナはここまで香を運んできてくれたカリスの、人間を守ろうと思えるその理由を思い出して微笑まずにはいられなかった。


「私はお前の父親を、友を愛していたし、その友が愛した女性を大切にしたいと思った。その女性が竜人ではなく、人間だったとしても。そしていまは、二人の子どもであるお前を守りたいと思う。出会ったこともない人間を守ろうとは、私は思わない。ただ、お前のために世界を守ろうと思う。その結果が人間すべてを守ることになったとしても、私にはどうということではない」


 今度はラベンナの子どもために、養父は世界を守り、それは彼が死ぬまで続くのだろう。あの、冷たく見える表情の乏しい顔で。しかし心の中はとても温かい人なのだ。ラベンナはそれを思うと、とても微笑ましく、そして誇らしく感じられるのだった。

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